白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

グローバル資本主義の危機

グローバル資本主義の危機―「開かれた社会」を求めて

グローバル資本主義の危機―「開かれた社会」を求めて

ロバート・J・バーバラの「資本主義のコスト」を取り上げるつもりだったが、その内容が、ジョージ・ソロスが以前より指摘していた「ブーム・バスト理論」であり、資本主義のコストとは、結局はバストを避けられないというだけの話だったので、今日はジョージ・ソロスの本を紹介することにした。
ジョージ・ソロス。(ジョージ・ソロス - Wikipedia)一代で巨万の富を築いた伝説の投資家だ。そして慈善家であり、哲学者でもある。同時に、その巨大な富を動かして世界に多大ば影響力を持つ社会活動家、政治的活動家でもある。東欧の壁を壊したのはソロスだと言えるかもしれない。世界的な支配階級の一員。そういう見方もできるが、雲の上の世界の話など、私たちには見えないし、見ない方が良いのかもしれない。
本書が書かれたのは1998年だ。解説は、榊原英資氏。ソロスが反ブッシュのキャンペーンを繰り広げたこと。榊原氏が民主党のブレインだと言われていることを思うと、世界の勢力図がいろいろと見えてくるだろう。
ソロスは、カール・R・ポパーの下で哲学を学んだ。ソロスはポパーの弟子だと自称する。本書の副題である『「開かれた社会」を求めて』の「開かれた社会」という概念もポパーの言う「開かれた社会」のことだ。哲学を学んだ人であれば、ポパーの「開かれた社会とその敵」や、対談「開かれた社会−開かれた宇宙」を読んでおられるかもしれない。開かれた社会という概念を一言で説明するのは難しいが、突きつめるとそれは「理性の時代の限界を悟った、誤謬性を認識する社会」だと言えよう。
「誤謬性」これが一つ目のキーワードだ。引用しよう。

誤謬性に関する私の急進的解釈は抽象的な理論であるばかりでなく、個人的な声明でもある。ファンド・マネージャーとして、私は自分の感情に大きく依存してきた。それは私が知識の不完全さに気付いていたからである。仕事をするに際して私を支配していた感情は疑い、不安、懸念だった。希望や幸福感さえ抱く瞬間もあったが、それは私を不安にした。それとは対照的に、懸念は私を安心した気分にさせた。このため私が体験した真の喜びは、自分が何について懸念しなければならないかを発見した時のものだった。

これは、嘘の無い天才投資家の哲学と感情の吐露だと思う。誤謬性(可謬主義=知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる)とは、まさにこういう事であり、開かれた社会は、人々がより賢明に、つまりは可謬主義者になることを要請するのである。
二つ目のキーワードは、相互作用性(reflexivity)である。これは通常「再帰性」と訳される。哲学用語であり、その意味するところは、「主体自身と行為対象ないし研究対象の相互関係」を意味し、主体が対象に影響を与えるため、対象を完全に客観的に記述、把握できないということを意味する。
本書は、このような哲学と思想を背景にして書かれた国際金融システムに対する警鐘だった。第8章「崩壊を防ぐために」では、資本取引規制を含むさまざまな提案が行われている。歴史に「もし」は無いが、これらの金融改革が行われていたならば、2008年の金融危機は防げたかもしれない。また、ソロスが誤謬性等の観点から、主流派経済学を痛烈に批判していることも付記しておこう。
さて、2009年のいま、金融資本主義に対する批判と擁護が強く対立している。通俗的、情緒的な議論も多いし、議論以前に感情論となっている部分もある。ただ、言えることは、国際金融が現代の戦場であるという現実だ。今後、国際的な制度改革、改良があったとしても、金融資本主義という現実が変わることはないだろう。金融業界の桁違いの給与、待遇にも批判が集中しているが、彼らが現代の戦士であることを知るならば、それは的外れなただの嫉妬なのではないだろうか。もっとも、私はこの金融戦争を支持するわけでも、何らかの勢力に加担するものでもない。ただの観察者として、リアリストとして、一つの見方を示しただけである。
現代の金融は、ゲーム的、数学的である。しかし、資本は確実に移動し、各国の経済は急速にその姿を変えて行く。より良い社会を目指すならば、このゲームに勝つことは一つのハードルだ。誰もが自己の利益を求めてゲームをしているわけではない。自己の利益を犠牲にし、強い使命感を持ってゲームをしている人が多数いるということを私は知っている。金融資本主義を批判するのは簡単だ。しかし、建設的な改革は良いが、後進的になることは危険である。円が国際金融という戦場で負けるということが、日本にとってどれだけの損出になるのか、強い自覚が必要なのである。