白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

虐殺器官

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

9・11以降、世界はどう変わったのか。この本はSFという装いをしているものの、その本質は深い哲学的洞察である。この本を真に理解し楽しむには、ピンカーやチョムスキーの本に接していること、現代脳科学の潮流を理解していること、ゲーム理論や現代政治学についての最低限の知識があることが前提になると思う。

伊藤計劃(いとうけいかく)。1974年生まれ。2009年没。「虐殺器官」は伊藤氏が命を賭けて書いた哲学的活動だ。主人公は米軍大尉であるクラヴィス・シェパード。専門は暗殺。後進国で繰り返される内戦と虐殺。その背後にいる謎の男ジョン・ポール。言語学者にして広告屋の彼は虐殺を生む言語に辿り着いたのか。そのヒントはプラハでのシェパードとジョン・ポール、そしてその元彼女であるルツィアとの会話の中にある。本書では明示されていないが、伊藤氏はこの独自の理論に怯えたのではなかろうか。何かが見えていたのではないのか。これは言語学に対する一つの警鐘だとも感じられる。

合衆国の言語学に対する力の入れようには異常なものがある。インターネットという自由を世界中に強制する一方で、そのインフラを完全に支配し、すべてをデータベース化し精緻に分析する。私もこうして自由にブログを書いている一方で、巨大なデータベースに参加している。すべては掌の上。逃げ出すような力は私たちにはない。

生命とは何か、意識とは何か、人間における進化とは、文化の進化とは、そして世界の仕組みとは。知的好奇心を持つ人々の間でのみ共有できる世界観と対話。この作品は、そういうニーズを十分に満たしてくれた。少なくとも、マスメディアが流している映画を現実だなどと信じているような人々は、この本を読んでも何も理解できないだろう。彼らにとっては映画(マスメディア)の方が現実なのだ。そして世の中は大多数のそういう人たち(B層?)でできている。いったい、私たちと彼らとの間にどんな会話が成立するというのだろう。

虐殺器官」をフィクションとして読むのか、ノンフィクションとして読むのか、それが問題だ。もちろんフィクションなのだが、その根本には事実と科学の裏付けがある。深い洞察と閃きがある。私は「虐殺器官」の世界観を共有できる仲間を求めている。もちろんそれは危険なことだろう。しかし、今の世界には安全などない。危険を恐れる理由がどこにあるだろうか。