白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

ドゥルーズの哲学原理

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの定義する哲学とは、概念を創造することを本領とする学問分野でえある。自然主義を根幹とするドゥルーズの立ち位置と、自由間接話法という独特の方法について解説されている第1章。ヒュームとカントを引きながらドゥルーズを超越論的観念論に位置づける第2章。そして、第3章では、思考は意思によってではなく、強制によって行われるというドゥルーズの考えからと主体性概念が示される。ここに、ドゥルーズが思考の次元から行為の次元へと進むことの必然性が見てとれる。これが、一人のドゥルーズからドゥルーズ=ガタリへという転回の理由なのだ。

第4章は、「アンチ・オイディプス」(1972)を中心に書かれている。ドゥルーズ=ガタリがファルス(男根)の欠如によって欲望を説明する構造主義的なパースペクティブから脱却し、政治経済学的視点と融合することで、真の政治哲学の視座が復活したのだと國分はいう。

第5章は圧巻だ。フーコーが「知への意思」で示した権力論の頂点に対し、ドゥルーズフーコーに宛てた手紙がある。(欲望と快楽、1977)この中でドゥルーズフーコーの理論は袋小路であると指摘し、新しい戦略を示唆した。これは「千のプラトー」(1980)の主題と重なる。フーコーのように、権力を抑圧するものと抑圧されるもの、支配するものと支配されるものという図式で見ている限り、この構図から抜け出すことはできない。これがフーコーの権力論の陥った袋小路だ。これに対してドゥルーズ=ガタリはかつてスピノザが提示した質問を呼び出す。それは「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためでもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」という問題だ。そして、人々の欲望アレンジメントを前提として、それに対応する権力様式が生じるのだとする解釈を提示し、権力に対する欲望の優位を主張する。人々は自ら進んで搾取や侮辱や奴隷状態に耐えている。それこそが一つの欲望のアレンジメントだ。もっとも、「千のプラトー」は権力装置の分析に重点が置かれた書物ではあるのだが。

各章の末尾には数ページの研究ノートが付されている。これは簡潔な読み物でもあり、理解と整理に大いに役立つ。この中の一つ「個の心と衆の心」を読んで、私はとても悲しく、そして複雑な気分になった。人の心とは、その程度のものなのか。いったい、他者に何をするべきなのか。もっとも、それよりも前に、自分自身が欲望のアレンジメントを分析し、自由を求め、自由にならなければならないのだ。