白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

21世紀の歴史

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

 筆者ジャック・アタリ氏はあまりに有名なので紹介するまでもないだろうか。1943年生まれ。38歳でミッテラン政権の大統領補佐官を務め、ヨーロッパ復興開発銀行の初代総裁、サルコジ大統領下ではアタリ政策委員会の委員長を務めている。政財界で活躍するのみならず、経済学者、思想家、作家としても活躍し、数多くの著作のある、フランスを代表する知識人だ。本書、「21世紀の歴史」がフランスで出版されたのは、2006年11月。訳者によると、本書は過去の50冊以上の著作の集大成とのことだ。読まないわけにはいかないと思った。
 21世紀も始まったばかりで、その歴史を書く、予想するということはアタリ氏は預言者なのだろうか。そうも言える。しかし、彼の予言は、歴史には法則があるという確信に基づく予測でもある。そして、未来の前兆はすでに現在の中に見てとることが出来る。彼は何を考え、何を予測し、どういう行動を取ろうとしているのか。彼は傍観者ではない。現代の主要プレイヤーだ。強力か微力か、あるいは無力かはさておき、一般市民もまたプレイヤーである。ここでは、「市場主義が支持されるのは、それが勝者にとって利益になるからであり、現実には市場主義の拡大が格差と貧困を増長している」というアタリ氏の見解を認めるとともに、そこで本当にトランスヒューマンという思想が浸透するのか、国家はどう凋落するのか、超紛争は起こるのか、そして、国家と市場の関係、あるいは超民主主義と市場の関係はどうあるべきなのかを、本書で展開される議論を踏まえて整理して行きたい。

■1 中心都市とは何か
 アタリ氏は資本主義が産声をあげたのは14世紀初頭のブルージュ(現ベルギー)だと言う。そして、このブルージュこそが、最初の中心都市なのだ。「マネーという共通の言語の世界」にとって、中心都市は市場の秩序を築く上で不可欠な存在だ。そこには、海運業者、起業家、商人、技術者、金融業者といったクリエーター階級が集まり、都市に資本が蓄積されて行く。中心都市は、その時代の資本主義の中核を担う。14世紀以降、中心都市は、ヴェネチアアントワープジェノヴァアムステルダム、ロンドン、ボストン、ニューヨーク、ロスアンジェルスと移って行く。この説に従うと、ロスアンジェルスは9番目の中心都市であり、1980年以降にニューヨークから移動したとされる。この移動の争点は、コンピュータの誕生と発展にある。そして言うまでもなく、インターネットの登場が大きな役割を果たす。インターネットは人々の生活や商業を変えただけではない。何よりも大きく変化したのは金融サービスだ。1997年には、国際金融取引は国際貿易総額の約3.5倍だったが、2006年には80倍になった。アタリ氏はインターネットの登場を新大陸の発見と同様の衝撃、と表現している。
 では、10番目の中心都市はどこになるのか? 本書では、中国、インド、日本、韓国、ベトナムインドネシア、ロシア、メキシコ、ブラジル等が検討されるが、どこも難点を抱えており実現性に乏しいと言ったところだ。アタリ氏はここで「新たな地政学的・経済的・技術的・文化的激震」という言葉を使っている。そして、10番目の中心都市は新たな敗者とともに出現するだろうと予言する。これは、どういう意味だろうか? 単純に読めば、第2章が「資本主義は、いかなる歴史を作ってきたのか?」で、第3章が「アメリカ帝国の終焉」となっているので、敗者とはアメリカだと考えられる。しかし、中心都市が市場と民主主義を前提とした秩序の頂点であることを考えると、10番目の中心都市は「不在」ということも考えられなくもない。そして、その場合の敗者はアメリカに限らない。

■2 世界を支配する超ノマド
 さて、近代資本主義は市場の秩序と国家の秩序の間で生き続けてきた。しかし、ここに来て様相が変わって来た。新しい技術と知識が超ノマドという階級を生んだからである。超ノマドとは、世界に影響力を持つ、企業の戦略家や経営者、ソフトウエア設計者、発明家、法律家、金融業者、作家、デザイナー等からなる。彼らの多くは自営業者でありながら、国境を越えて移動することができ、その独自の知識と技術で巨大企業を事実上リードして行く。アタリ氏は彼らを「超帝国における富とメディアの支配者」だと言う。超帝国とは、世界の秩序が国家を超えて統一された状態を意味するものであり、まだこの時代は到来していない。しかし、すでに超ノマドは世界中で活躍しており、洗練されたネットワークを持っている。従来の世界の支配階級ですら、いまでは彼らの頭脳無くして世界戦略を立案し、遂行することが出来ない。
 アタリ氏に言わせれば、彼らが作り出すのは、脆弱で、のんきで、わがままで、不安定な地球規模の社会ということになる。超ノマドはどこまでも個人主義者であり血縁とも地縁とも無縁な存在だ。競争に勝ち続けることだけが彼らの興味なのだ。

■3 解体される国家
 超ノマドの台頭によって危機に瀕するのは国家である。彼ら少数派の富裕層にとっては民主主義よりも市場主義の方が都合が良いからだ。アタリ氏は、この辺りの問題について「もともと地球規模の性格をもつ市場が、もともとローカルな性格をもつ民主主義の法則に背を向ける。」と語る。重要なのは、市場と民主主義のバランス、調和なのだと考えるが、それは難しいのだろうか。
 アタリ氏の予測は続く。国家は、資本やクリエーター階級に対する課税引き下げ競争を演じて財源を失い、教育、医療、安全、さらには統治権すら市場に委ねるようになる。治安は悪化し、労働者の賃金は減少する。2050年ころには(随分先だが・・・)、国家のゆっくりとした解体が始まる、と。
 日本は今年、史上最高規模の国家予算を計上したが、財源問題は棚上げにされたままだ。すでに日本では、国家のゆっくりとした解体あるいは崩壊が始まっているのかもしれない。悪い意味で先進国になって欲しくは無いのだが。
 さらにアタリ氏は「超紛争」の時代が来ると予測する。国家の治安悪化、地域紛争、テロにとどまらず、グローバルな地球規模の紛争が勃発する可能性が高いと予測するのである。しかし、傍観者ではないプレイヤーであるアタリ氏は、この状況を変える理念と政策を提示する。これは筆者にとっての責務だとも言えるだろう。それが、「トランスヒューマン」という思想に基づく「超民主主義体制」だ。

■4 トランスヒューマンという思想
 トランスヒューマンとは「愛他主義」である。収益が最終目的ではない企業や組織、あるいは個人の登場をアタリ氏は予測する。もっとも、予測するまでもなく既に多くのトランスヒューマニストは存在する。「トランスヒューマンは、自分への愛から始まる他者への愛が、人類の存続条件であることを、他者を通じて理解する。」(p.291)そして「市場経済と並行して愛他主義経済を作り出す。」と書いているのだが、どうだろうか。
 ピンカーの「人間の本性を考える」を読んだ私としては、このような観念先行では無理だと断言したい。これは、トランスヒューマンという思想の否定ではない。そうではなく、もっと具体的な「社会的発明」が必要なのだ。それは、フリー経済かもしれないし、ベーシックインカムかもしれない。あるいは、今は誰も語っていない画期的な制度ではないだろうか。人類の存続のためには、新しい叡智が必要なのだろう。それでも歴史は繰り返すのだろうか。否だ。超紛争の後に、人類の歴史は無いだろうから。
 
■5 市場vs国家
 ライシュ氏の「暴走する資本主義」にもある通り、現在は市場主義が民主主義を飲みこもうとしている。そもそも、資本主義とは、市場原理と、国家の役割とのバランスの上で成り立っていたものが、あまりに国家が弱体化し過ぎたのだ。その背景には市場主義が生みだした、新興の超富裕層の存在がある。彼らの多くは超ノマドと言っても良いだろう。今すでに、世界に対して強い影響力を行使しているのは超ノマド達なのだ。私は彼らの存在を否定しているのではない。ただ、彼らの発する言説が誰のための言説なのかを冷静に考えて欲しいだけだ。また、安易な市場原理主義批判は反動としての国家独裁制を招く危険性を多分に秘めている。では、どうすれば良いのだろうか。
 「もともと地球規模の性格をもつ市場が、もともとローカルな性格をもつ民主主義の法則に背を向ける。」という、アタリ氏の言葉に再度注目しよう。
 最近では、「グローバル市民主義」(浜矩子)という本も出ているが、どうも私にはしっくりと来ない。現代の「市場のグローバル化」という津波を止めようなどと考えてはいけないのだろう。そうではなく、民主主義の原点として「ローカルの復権を目指すべきなのではなかろうか。文化的多元主義を守りながら、グローバル市場を生かすという発想だ。これだけ文明が進歩したのだ。競争に追われ疲弊し消費される人生よりも、多くの快適な時間を志向した方が遥かに賢明だろう。
 こうして見ると、市場と国家は男と女の関係に似ている。仲が良い時も悪い時もある。しかし、世界が男だけでも女だけでも困る。