白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

国境お構いなし

国境 お構いなし

国境 お構いなし

社会学者、上野千鶴子のエッセイ集である。今は文庫本になっているので、買われる方は文庫本の方が良いだろう。タイトルからわかる通り、内容は筆者のメキシコ、ニューヨーク、インド、ネパールなどでの体験に基づいたものだ。留学や旅行ではなく、教えに行って稼ぎ、日常をエッセイにして雑誌に載せて稼ぎ、さらに単行本にして稼ぎと、かなり効率の良い稼ぎ方だ。揶揄しているのではない。感心しているのであり、嫉妬しているのだ。
一方の私は、このブログで一文にもならない書評を書いている訳だが、この差は何かというと、ブルデューの言う文化資本の差だ。文化資本とは、学歴、所属、語学力にとどまらず、趣味や生活、教養といったものまでが含まれる。本書でも、何度となくこの「文化資本」について触れられている。つまり、自らが越境者となった場合(海外に住むようになった場合)でも、この文化資本は階級・階層としてついてまわり、その壁を超えることは出来ないのだと言う。逆に言えば、文化資本を持っていれば、異文化でも同じ階級・階層として受け入れられるというわけだ。本書では、英語による言語帝国主義の現在についても触れられているが、子供を持つ親の立場から言えば、やはり海外の大学で学位をとって欲しいと思ってしまう。私のまわりにも、海外の大学で学位をとった30歳前後の人たちがいるが、彼らを見ていると、生き方が違うように思われてならない。つまり、人生設計を複線、複々線で考えているし、選択肢が多い。余裕が違うのだ。パワーと言っても良いかもしれない。
さて、本書でとりわけ興味深かった国はメキシコだ。メキシコには、スペイン語でシルビエンタと言われる家事労働者がいる。そして、メキシコの中産階級のほとんどがシルビエンタを雇っていて、妻が家事労働をすることは無い。もっとも、これがメキシコの女性フェミニストの泣き所のようだ。メキシコは国内に大きな南北格差を抱えているのである。同書で紹介されている長田弘氏の発言も興味深い。氏はメキシコで生きるために絶対必要なものとして、以下の三つをあげる。それは、メキシコ的時間観念、嘘、論理の欠如だと。そして、「メキシコは人を変える」のだと言う。
それにしても、上野の好奇心の旺盛さと行動力には圧倒される。本書のあとがきで上野はこう書いている。

わたしは各地で、難民や亡命者や国籍を変えたひとびとに会ってきた。かれらに出会うと、そうか、わたしだってこうやって生きていけるのだ、と思える。(中略)
そして、人間が住んでいるところなら、どこでも生きていける。そう思えることは、安心感につながる。(中略)
いったんこういう気分を持つと、自分の生まれ育った国にいても、亡命者の気分はなくならない。外からの目で自分の社会を見る。そうすると、たいがいのことが耐えられるようになる。

上野は、日本にいても難民であり、亡命者であり、越境者なのだ。「まれびと」という言葉が本書の中に出てくる。「まれびと」とは、土地のヨソモノか、土地の出身者であっても他郷に遊学したり滞在していた半ヨソモノのことだ。そして、村おこしや、町づくりの事業のキーパーソンは、そのほとんどが「まれびと」なのだと言う。まれびとがいないと、地域や社会は活性化しない。
別の章では、逆の例があげられている。日本女性の巨大な頭脳流出についてだ。「別府さんによれば、日本社会はノイズとなるような女性を海外へと排除することで、社会を内部から変革する芽を摘んでいる。のだそうである。(p.166)」社会だけではない。多くの企業もまた、ノイズを排除することで変革の芽を摘んでいるのではなかろうか。
面白い話はいくつもあり、書きだすときりがない。インド人のプライドが大英帝国にあり、アメリカ訛りの英語を軽蔑しているとか、女子割礼に関する考察、そして本書の中では、やや異質となる終章の「戦後知識人の北米体験」など、どこを読んでも面白い。上野千鶴子は東大でケンカを教えているだけではない。外国でもケンカをしているのだ。ある女性は私に言った。「ケンカも出来なくなったら人間おわりやろ」。驚いたね。(笑)