白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

訴訟

訴訟 (光文社古典新訳文庫)

訴訟 (光文社古典新訳文庫)

フランツ・カフカ。一部では完全に神格化された作家。1883年チェコ生まれ。サラリーマン生活をしながら執筆をしていたため、極めて寡作である。さらに友人が遺言に忠実であるならば、この「訴訟」(審判)は世に出ない筈のものだった。しかし、友人は遺言を裏切る。もし、カフカがそれを知ったらどう思うだろう。きっと怒ることもなく、ニヤリとするのだ。完全主義者の失策。それも必然なのだと。

主人公のヨーゼフ・Kは何も悪いことをしていないのに逮捕され、裁判が始まる。しかし、この裁判がまったくもって要領を得ない。その仕組みからして闇の中なのだ。Kは悪戦苦闘する。漠然とした不安と漠然とした自信の間を揺れ続ける。いろいろな人物が彼の訴訟に関与する。

それにしても克明で繊細な描写だ。弁護士の長いだけでくだらない話とやらを、その長いまま丸ごと書いている。そのエネルギーには誰もが圧倒されるだろう。どこまでも厳密に、ただ書き尽くすことを自らに課しているかのようだ。

場面場面の面白さを追うのも良いが「訴訟」におけるKの位置づけは押さえておくべきだ。銀行の支配人に短期間で昇りつめたK。真面目で優秀な一市民。この市民にのしかかる得体の知れない不安。「訴訟」は、この近代市民に特有の不安を描くことが目的だったのではないのか。そして、市民社会とは、誰もがこの不安を抱えながら生きることを運命づけられているのではないのか。

だとするならば、Kのとった行動に正しいも、間違いだったもないのだ。戦うこと、愛すること、信用すること、学習すること。どれもが瞬間、瞬間の真実なのだ。この社会では、その仕組みは公開されているようで、公開されていない。権力の構造を誰も知らない。ただ、知っていると語る人間は数多い。

この小説の最初の出版はカフカの死後である1925年だ。もう100年近く前と見るのか、まだ100年も経っていないと見るのか。この間の科学技術の進歩は疑う余地もない。しかし、人間は進歩しただろうか。そして、文明は進歩しただろうか。そもそも、人間にとっての、文明にとっての進歩とは何なのか。

Kには錯覚があった。社会を知ることが出来るという錯覚があった。カフカは、この時代の市民の情景をKの訴訟に沿って描いた。時代はどう変わったのだろう。この作品に同時代性を感じるのは、私だけなのだろうか。