白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

恋愛といじめの哲学

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

今日は実に俺らしく、知的に読書会だった。それは2階で、縁起の良いことに13人だ。薄暗い部屋。まるで秘密結社の会合だな。俺はそう思った。

カレーを食べている人もいる。ケーキーを食べている人もいる。しかし、重要なのはそんなことではない。メンバーがそれぞれこの本をどう読んだかということだ。つまり、テーマは本ではなく読者であるこのメンバーなのだ。おかしい。これでは真面目な日記だ。

読書会の途中でメールが入った。叔父の訃報。そうか、亡くなったか。

議論は白熱したようで、蛍光灯だったかもしれない。部屋が広いのにエアコンは一つだ。9月2日。まだまだ夏だ。故に、熱い読書会になった。

この本の主人公は僕で、僕は学校でいじめられている。そして、コジマという同じクラスの女子もまたいじめられている。二人は健全な男女交際を始める。デートが美術館だなんて実に文化的だ。

読書会では話題にならなかったが、文庫本には作者の写真入りの広告のチラシが入っていた。なかなか可愛い。最近2回目の結婚をし、出産したばかりだ。旦那も作家で、一つの部屋で仕事をしているという。どこからそういう情報が出てくるのか。流石は秘密結社だ。

この読書会に参加するのは4回目だ。参加者は皆、我が強く、弁がたつ。ここで喋るには、気を強く持って、筋金入りの文脈を準備しないといけない。揺れたら負けだ。

だが、俺には困った問題があった。歯が劣化してしまい発声がうまく行かない。これはハンディーだ。言い訳に聞こえるかもしれないが、きっと言い訳だろう。

コジマは中学生で、離婚して別居中の貧しい父を思って、そのしるしとして、汚い格好をし、風呂にも入らない。しまいには絶食してしまう。これは親が悪い。子供は子供だからだ。何と言っても中学生だ。しかし、悪いと判断したところで、それは現実だ。現実とはそういうものだ。

主人公の僕はバカだ。鼻が曲がるほど蹴られて血を流しても学校に行くなど、ただのバカだ。でも人間なんて、ほとんどがバカだ。俺もバカだ。

それに比べて、いじめる側の百瀬というのは賢い。すべての行動を理屈で説明する力がある。利己的で打算的で貪欲で邪悪な者。しかし、こういう要素を根っこに持っていないと、今の時代は生きられない。Kさんが、ネオリベ的自己責任型と言ったが、そうなのかもしれない。

子供の世界が無邪気なら、大人の世界は適当でいい加減だ。社会秩序など、体系的なように見えて矛盾に満ちている。この矛盾を抱えながら生きること。それが良き生なのだろう。ピュアであることの、割り切れることの危うさ。筆者はこれを伝えたかったように思う。それは諦めでもあり、妥協でもある。

人は青春の一時期、それを拒む。ピュアでありたいと思う。それは通過儀礼のようなものだろう。だから青春は美しい。そして、大人は美しくない。別に俺のようにとは言わないよ。

結末の文学的表現についての指摘もあった。主人公の僕とコジマは二度と会うことが無くなった。そして、僕は斜視の手術をし、視界が変わる。そこで見たもの、繰り返される「ただの美しさ」という表現が何を意味するかという議論である。僕はコジマとこの美しさを共有したかったのだろう、という読みである。

だとすると、その切なさは何だろう。

初恋が美しいのは、それが終わるからだ。理屈っぽい小説という評価が多かったが、これは恋愛小説なのかもしれない。そして、それが恋愛だったと気がつくのは、終わってからなのだ。

ふむ。この日記、そのまま俺の書評ブログにアップしてみようか?