白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

人間らしい生と労働

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

以前から友人に強く勧められ、書店でも手にしていた本だったが、ようやく購入し一気に読み終えた。本との出会いにもタイミングという要素があるのだろう。読むときの状況によって感想が大きく変わるのは良くあることだ。
「俺」という一人称で書かれている前書きで筆者の経歴を知り好奇心が湧く。読みだすと、有名な哲学者がバッサバッサと切り落とされる。ラッセルの「幸福論」に首を捻り「このへんがラッセルの限界だ」と見切る。パスカルについては、ほぼ問題外といったところだし、アレントマルクスの論文を故意に変えて引用する問題児だ。ハイデッガーの退屈論である「形而上学の根本諸概念」の退屈の3形態について解説しながら、結論の過ちを鋭く指摘する。より多くの人が読んで楽しめる文章にはなっているが、書き直せばそのまま哲学論文である。
扱う時代の中には石器時代があるなど、暇と退屈が歴史的にどう扱われ、さらにその観念が歴史にどう影響してきたかなど、この本は通読するという行為の中で多くの発見や想像を体験できる。私は読後に、もやもやして閉じこもっていた自分の観念の殻が割れて、他者や外部との風穴が開いたように感じた。
結論の中で筆者は言う。退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈もそれなりにはあるが、楽しさもそれなりにある生こそが人間らしい生だと。そして、今の世界には戦争や飢餓、貧困や災害でそれを許されない人も多くいるのだと。最後にはマルクスの名前を出して、誰もが暇のある生活を享受できる「暇の王国」を目指すのだと言う。筆者はハッキリと社会変革を目指してこの本を書いた、と言っているのだ。
それにしても、この本を読んで面白いと思えるのは、それなりの教養と時間的、経済的余裕がある人ではないだろうか。そして、労働時間を減らせば「暇」が出来るという理屈は単純過ぎるのではないだろうか。仕事をしている時が一番楽しいという人もいるし、私にもそういう時期があった。(今もか?)つまり、どうしても「閑暇の質」という問題が出てきてしまう。「ラッセルの限界」などと気取ったところで、やはりラッセル(暇を楽しむには教養が必要だ)の方が正しいように思う。
私は最近、ツイッターで次のような言葉を呟いた。

現代の労働神話とは、一方では労働を聖なるものとし、一方では罰としての労働という矛盾を許容することであり、その中で人を格付けする装置として機能させるということだ。

まず最初に問われるべきは、労働の形態ではなく観念なのだ。「働かざるもの食うべからず」という奴隷的道徳に隷従しているようでは、何も変わらない。付け加えれば、私は「ワークライフバランス」という言葉に違和感を覚える。ワークとライフを切り離してしまっているからだ。今、必要とされているのは「新しい労働観」に他ならない。