白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

かくれ佛教

かくれ佛教

かくれ佛教

鶴見俊輔。戦後論壇の大御所と言って差し支えないだろう。1922年生まれ。父は国会議員の鶴見祐輔。小学校では不良だったと言う。この本にも書かれているが、睡眠薬をOD(オーバードース)するという自殺未遂も経験している。父とは思想的にまったく噛み合わなかった。国会議員の息子のスキャンダルが漏れては困る。そこで、意に反して俊輔はアメリカに行く。小学校卒でしかないのにだ。アメリカで英語を勉強した後、ハーヴァード大学に入学し、哲学科を優秀な成績で卒業した。
本書の帯には「鶴見俊輔、米寿にして宗教を語る」とあるが、その博識、衰えない記憶力、さらに交友範囲の広さと行動力には圧倒される。佛教だけではなく、キリスト教はもちろん、イスラム教、禅、アニミズムなどが、具体的なエピソードと共に、あるいは歴史的な流れとして具体的に示される。キリスト教マルクス主義全体主義に陥るという見方。宗教と国家のかかわり方。鶴見俊輔の視座は、この点で揺らぎがない。その背景には、日露戦争以降の日本の政治状況、社会状況と佛教との関わりが大きく横たわる。
それにしても、これらが語られる時の迫力はどこから生まれるのか。それは学問に対する覚悟のあり方なのだと思われる。学問を通して培った歴史観に対する信念と責任。学問の戦場で退却は許されないという当事者意識と倫理観だとも言えるだろう。現在、知識を頭だけに留めず、それを血とし肉にした厚みのある学者がどれだけいるだろう。一概に良い悪いは言えないが、時代あるいは制度の差を感じずにはいられない。
もっとも、鶴見が多くの批判にさらされていることは私も承知している。左翼でもなければ、仏教徒でもない。自称、アナーキストだ。さらに、本書を読み進めるに従って、宗教的知識の豊富さからは程遠い、あまりに単純な直観が宗教的原点となっていることにも驚かされた。そして、この立ち位置は、深い思索の帰結ではなく、生きるうえでの戦略的な知恵かもしれないとも思った。
今、十代、二十代の人の中には鶴見俊輔の名前を知らない人もいるだろう。この本は、とても読みやすい。老いた鶴見ファンはともかく、私としては一人でも多くの若者に、この本を読んでもらいたい。今は、歴史観が問われている時なのだから。