白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

テクストとしての社会

テクストとしての社会―ポストモダンの社会像

テクストとしての社会―ポストモダンの社会像

私がこの本を買ったのは、1990年10月6日。夢中になって読んだ記憶がある。その証拠に、この本はボールペンのインク、マーカー、付箋でとても汚れている。あれから20年、私は何をしてきたのだろうか? あの頃、私はサラリーマンだった。そして今もサラリーマンだ。まあ、そんな事はどうでも良い。本書について簡単に語ろう。
リチャード・H・ブラウン氏。馴染みの無い名前かもしれない。本書出版当時の肩書は、メリーランド大学社会学部準教授、ワシントン社会調査研究所の所長だ。本書の良さは、文章の美しさと明晰さだ。これは訳者の功績でもあるのだろう。そして末尾にある参考文献は1000冊に近い。大教養人と言って差し支えあるまい。
まず、本書の目次を見てみよう。

序章 テクストとしての社会
第1章 ディスクールと政治体制
第2章 個人のアイデンティティと政治経済
第3章 修辞的なものとしての理性
第4章 レトリックの理論と理論のレトリック
第5章 レトリックと歴史の科学
第6章 物語テクストとしての社会的現実
第7章 社会的テクストとしての物語
第8章 文学形式と社会学理論

筆者はまず、自我についての西欧の概念をロマン主義的なものと、実証主義的なものとに切り分ける。社会、経済、政治の場で、いかに実証主義が勝利してきたかを概観し、そこで起きている問題を疎外、アイデンティティの混乱、政治的分裂症だと指摘する。本書は、このテーマに沿って展開された、一つの思想的挑戦と見てとることが出来る。
極端かもしれないが、筆者は次のように語る。

もし自律性と自我管理をもつパーソナリティをうまく育成したとすると、失敗を−つまり、近代の官僚制にもとづく生活に不適応な個人を−形成していることになるだろう。なぜなら、個人の信頼性とはいまや、社会的適応不全に等しいものとなりつつあるからである。逆に、家族が、官僚制社会に適合するパーソナリティをもつよう子供をうまく社会化した場合、家族が生み出すものは、家族それ自体と同じく、遂行への強い要求をひき受けはするものの実践的な自律も援助もほとんどないような、神経症者である。(p.68,69)

自我の問題は、当時も、そして現在も深刻なのだ。
最終章は、弁証法アイロニーが持つ三つの有利な点で締め括られる。これがまた、見事な結びだ。その中には、以下の一文も含まれる。弁証法アイロニーは、いっさいが象徴的構築過程であること、いっさいが歴史的なものであること、そしてまた、他のものより究極的に優越したものは存在しないことを明らかにする。」(p.281)
筆者もまた、ローティと同じくアイロニストであることを公言している。もちろん、アイロニストとは皮肉屋のことではない。そうではなく、アイロニストとは道徳的ジレンマを解消するような真理や法則は無いとする反プラトン的な知識人、反形而上学者のことだ。本書ではアイロニーの哲学的歴史にも触れられている。当然、参考文献の中にはリチャード・ローティの論文が含まれている。目指すところは異なっていても、立ち位置は極めて近い。民主的であるとはどういうことか。なぜ、文学の復権が求められるのか。そこには、人間に対する深い愛情が感じられる。
「人間的であるとは、どういうことなのか?」と、問うこと。
最高にお勧めの一冊。