白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

人間の器量

人間の器量 (新潮新書)

人間の器量 (新潮新書)

筆者、福田和也氏は言う。日本人は小粒になった、と。そう言えば、最近は器量という尺度自体が無視されている雰囲気すらある。すべては、知識や技術、能力で測られる傾向にあることは間違いない。福田氏の指摘する通り、人物に対する物差しが単純化していると言えるだろう。
福田氏の一番の主張は以下の一文に集約される。「やはり人物といえるほどの存在を作ろう、産みだそうとしないと、どうしようもないのではないでしょうか。」(p.69)この主張には異論もあるだろう。民主主義の時代に、清濁を併せ呑む器量の大きいカリスマなど危険だという見方もできる。福田氏の危惧は二つある。一つは、易経の中にある「治に居て乱を忘れず」という訓えを忘れ人々が緊張感を失ってしまったことだ。そしてもう一つは、国家の危機という時に最前線に出て命を捨てるエリートがいなくなったことである。
器量とは、懐の深さであり、厚みであり、さらにはそれらが醸し出す面白み、魅力だと言える。それは、時として人間臭い。私は、「日本人が小粒になった」のだとしたら、その原因はマスコミと民主主義にあると睨む。些細なことで一気に持ち上げ、些細なことで袋叩きにするマスコミの習性が、大物をして萎縮させ、あるいは失脚させてきたのではないだろうか。さらに、民主主義におけるトクヴィルの慧眼と重なる点を見過ごしてはなるまい。トクヴィルは「アメリカの民主政治」で次のように書いている。

 民主的社会にとっては、大胆さよりもつまらない願望の方を、われわれは恐れなければならない。そこでは、最も恐るべきものは私生活の絶えまなき些細な配慮のうちで、野心がのび広がる力を失うことであり、そして人間本来の情熱が、熱を失うと同時に低劣化して、日々に社会が静まりかえって低落するようになってゆくことである。
 それ故に、民主的な新しい社会の首長者たちが、まとまりのありすぎる、そして平穏すぎる幸福のうちに市民達を眠りこませ、あるいは眠りこませようとすることは誤りであろう。なおそこでは、これらの首長者たちは、市民たちに、その野心を高めさせるようにして、その野心に活動舞台を開いてやるようにするために、時としては困難な危険な事業を与えてやった方が好いであろう。
 (「アメリカの民主政治(下)」A.トクヴィル 講談社現代新書 井伊玄太郎訳版 p.441) 

実に、トクヴィル福田和也氏が現実に直面して嘆くより170年も前にこの事態を予見していた。トクヴィルの描写と表現は辛辣かつ的確である。民主主義の特性と問題点および課題を考えるうえで、「アメリカの民主政治」より重要な本は無いと言っても良い。
話を「人間の器量」に戻そう。福田氏の大物待望論が是か否かはさておき、この民主主義の時代に器量を問うことは有意義なことだ。器量は生まれ持った資質ではない。努力によって大きくすることができる。福田氏はそう主張する。そして、本書の中でも、器量を大きくする五つの道を示している。この五つが何かは、敢えて書かないので、興味のある方は書店に足を運んでいただきたい。
表題の「器量と民主主義」は、矛盾の対として提示したものだ。特に、民主主義における「平等」の問題点について、それを否定するのではなく、トクヴィルと同じく「健全な懸念」をもって対処するという仕方を学ばなければいけない。私たち日本人は、大昔の賢人から、決定的に幼児期に釘ずけにされている人々、と蔑まれているかもしれないのだし。(笑?)

◆2009/12/30 追記

やや考えが変わった(整理できた)ので、現在の見解を追記することにした。

1.民主政治においては人間が小粒になり、健全な野心が育たないという問題が生じる。故に、統治する立場の者は、国民に困難を与えることも時として必要である。(トクヴィル的)
2.私たちは残忍さを嫌うという点で連帯できる。民主主義という制度は人類最高の財産の一つなのだから、ユートピアを目指して連帯することは間違っていない。(ローティ的)
私にはトクヴィルの言うことも、ローティの言うことも分かる。ただ、トクヴィルは完全に特権階級からの所謂、上から目線だ。一方で、私はローティが示す「ユートピア」というものに懐疑的なのである。さらに付け加えれば、民主主義の優位という立場では、ローティと完全に一致する。
ただ、私が何者なのかを他者に理解してもらうには、トクヴィル的なものを切り捨てないといけないだろう。トクヴィルの慧眼には賛辞を惜しまないが、今の時代にトクヴィルの思想はいらないのだと。