白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

天皇と東大

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

天皇と東大 大日本帝国の生と死 下

天皇と東大 大日本帝国の生と死 下

立花隆の代表作にして労作であり大著であるこの「天皇と東大」を読むと、明治から昭和にかけての思想的な流れが良くわかる。
初代の東大総長で自由民権の旗手でもあった加藤弘之は、国家主義者の圧力に屈し(殺されてもおかしくないのだから)、自らの著書「国体新論」を絶版にして、その変節を新聞にまで広告として出した。加藤は学者の間での誹謗、中傷をものともせず、媚びへつらって大出世街道を邁進し、次々と勲章をもらい、さらにはその勲章を長々と自慢する。その俗物ぶりを立花隆は批判するが、私のような小人には、その批判に同調する資格もなければ、そう簡単に批判する気分にもなれない。
人は生きるために何かを犠牲にする。いかに崇高な信念に従おうとも、勝てない戦いを行う者は愚かだとも言えるだろう。愚かが悪いとは言わない。ただ、大切なものを犠牲にして生きている人の行為を、そう簡単に批判できるのだろうか、と。
それを批判し、非難できないという性向が日本人的なのであり、日本人の決定的な弱点なのだと指摘する外国人学者もいた。私は、自身をユダヤ人的な、つまり、常に対立を求め、対立の上にしか安住できないような性格だと思っていた。しかし、本書を読んで、私の中に日本人的なものを発見したような気がしたものだ。それは、良いことなのか、悪いことなのかはさておき。
この本を読むと、東大のもつ性格も良くわかる。東大は、学問の自由も大学の自治もなく、ただただ国家に貢献する役人を養成し輩出することが、法律で明文化された目的の大学だったのだ。教授陣と政治、行政は極めて密接な関係にあったのも当然だ。そして、右翼の源流も、左翼の源流も、東大にある。
意外なことに天皇の位置づけを除いては、右翼も左翼も見事なまでに社会主義指向であり、ほとんど差がないのだと立花は言う。
歴史に関わる人というのは多くはない。もし、この人物がいなかったら、日本の歴史はまるで異なる方向に行っていたかもしれないと思われることもある。民主主義と言われる今、私たちは本当に民主主義を背負っているだろうか。それは、ある状況では戦いとなることを覚悟したものでなければならない。命を落とそうとも信念を貫くという程度の覚悟だ。偉そうなことを書いているが、私には自信がない。ただ、慰めを言えば、そのような覚悟が必要だという認識は持っているということか。それでは、慰めにはらないか。(笑)