白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

「心の専門家」はいらない

「心の専門家」はいらない (新書y)

「心の専門家」はいらない (新書y)

極めてラディカル(根源的)な臨床心理学批判である。その対象はカウンセリングのみでなく、心理テストや精神科医療にまでおよぶ。筆者の小沢牧子は自身を元臨床心理学者とし、現在は「臨床心理学論」専攻なのだと言う。
さて、臨床心理批判の論点は多岐にわたるのだが、大きくは「心(関係)のビジネス化」と「問題の脱政治化」に分けられるだろう。心のビジネス化の危険性とは次のようなものだ。

専門家・行政に生き方や生活を預ける危険は、具体的には、戸恒や瀬川が指摘している事態に帰結している。日常の生活の核にある人と人との関係、すなわち近隣やその友人知人、親子や夫婦の関係を自分たちで引き受けていくかわりに、引き受け先に手軽にゆだねようとすることの問題である。(p.54−55)

つまり、心のビジネス化は、正常な人間関係を奪い去り、ますます回復不可能なものにしてしまうと言うわけだ。
では、「脱政治化」とは何を意味するのだろう。ここでは本書にある吉田おさみの論文を孫引きする。

心理療法といいカウンセリングといい、やはり社会に合わせるように個人を変えるということのみが目標とされてて、そこには社会を変えていこうという意図は見られません。(略)カウンセリングや心理療法は常識的生き方に患者を導くとすれば、それはやはり現状肯定といわれとも仕方ありません。問題は周囲社会と本人との間隙を、本人を変えることによってのみうずめるのではなく、本人が主体的に周囲を変え、その中で自分も変わっていくというダイナミックな変革形態こそが必要なのです。」(p.89−90)

このような現状肯定の姿勢を小沢は脱政治性だと言う。もっとも、私の知る限りでもカウンセリングは多様であり、例えばゲシュタルト療法のようなものもある。小沢が批判しているのは、あくまでも現在主流となっている臨床心理学についてだと言えるだろう。
小沢の批判は「カウンセリングの技法」そのものにまでおよぶ。結局それは問題をずらし、真の問題解決になっていないのだと。本書ではいくつかの事例とともに、その問題点がいろいろな角度から浮き彫りにされる。
そのうえで小沢は「日常の復権」に希望を見出す。縁の思想に賭けるのだと言う。しかし、これが壮絶な闘いであることは言うまでもないだろう。そのことは、小沢自身が冒頭で述べている通りだ。

カウンセリング願望の背景には、極限化する情報・消費社会を浮遊する個人の、よるべない信条が存在している。この信条はしたがって、カウンセリングとは限らず、宗教とも独裁性とも結びつくものであるだろう。透明なカプセルに一人ずつ閉じ込められ外から値踏みされるような気分が世の中を支配している。自助努力、自己責任、個性の育成、規制緩和、自由競争、グローバリゼーション、まして負け組勝ち組などの言葉は、むきだしの能力主義の進行を意味している。(p.39)

むきだしの能力主義と、それを助長する多くのカウンセリング。商品化された心。「精神の管理社会」の進行。精神の管理は、単純な強制ではなく、自主性を促され、主体的に作られて行くのだ。
現実の問題として心の専門家は増え続ける。そして、日常の復権はますます困難となり、個人は社会の中で、いっそう浮遊した存在となって行くのだろう。そう考えると、現在主流となっている臨床心理学内部からの改革がどうしても必要となる。その意味で、臨床心理学者は本書に対して強く反論するべきなのだろうが、寡聞にしてか、そのような発言は聞かれない。残念なことだ。本書は、やや観念的なきらいはあるものの「心の問題」に関係している人には必読の一冊である。もっとも、臨床心理学もいろいろ、カウンセラーもいろいろだ。小沢の批判がすべてに該当するとは思えない。しかし、臨床心理学の二重の罠(個人にとって、社会にとって)に陥る危険性については十分に認識しておく必要がある。