白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

クラブとサロン

 1991年。18年も前の本だ。タイトルは「クラブとサロン」。これは両者を対比して語るものではなく、クラブおよびサロンを「情報」という視点から見て行こうとする試みである。本書は、13人の識者の論文で構成されており、筆者の中には、笠井潔田中優子松岡正剛らの名前がある。論考は体系的ではなく多様だ。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、また時代背景も、視点も様々である。政治から市民文化、SMから秘密クラブまで、幅広いとも言えるし、脈略が無いとも言える。編集されるべき素材が編集されずに提示された、そんな「変な本」なのだ。

 さて、本書を読み返して、まず疑問に思ったことは、「主役は本当に情報か?」ということだ。それぞれの地域、時代の社会的、文化的背景に関する詳細な記述に接するほどに、情報は主役ではなく、ただのスパイス程度のものであり、クラブやサロンというデバイスこそが主役であるように思えてくる。そもそも、サロンとは近世フランスに大邸宅の客間のことだし、クラブの発祥は17世紀後半のイギリスのコーヒー・ハウス(喫茶店)だとされる。そして、面白いことに、当初は開放的だったコーヒー・ハウスも、大衆化とともに上流階級がこれを嫌い、閉鎖的なクラブへと移行して行く。このような歴史の流れは、webという混線、必然としてのSNS、ブログ・ブームという現代のインターネット環境と似ているところが多い。

 もっとも、現代日本の大衆化には二つの特徴がある。一つは、従来の横に広がった同質化された大衆ではなく、縦に伸びた格差のある大衆、階層化され、階層が固定化されようとしている、縦型の大衆化だという点だ。もう一つは、トックヴィルが19世紀に予言した通り、それらの階層は、なんら思想・信条による紐帯を持たないという点で階級ではないという点である。

本書を読み返して、ブログやSNSの成功の条件は、大き過ぎず、かつ小さ過ぎないこと。開放的に過ぎず、かといって閉鎖的でもないこと、のように感じられた。なお、ここで言う成功とは、
(1)サロンないしクラブとして機能すること
(2)ビジネスとして成立すること
の両立である。

 本書の中では、笠井潔の「反共同体のトポス」が面白い。笠井は、19世紀ロンドンのコーヒー・ハウスを、「街頭」だと言う。街頭とは、一時的に現実の共同体から離脱して、「何ものでもない(共同体に属さない)私」になる場なのだと。街頭とは、「目的のない遊歩」の場なのだと。ここで言う街頭は、そのまま、21世紀の今現在における「ブログ」に置き換えてみることができるだろう。ブログとは、まさに、何ものでもない私の目的のない遊歩の場だ。そして、そこには、出会いがあり、交錯する何かがある。そういうコミュニケーションは、ある意味で人間の本能(欲望)だ。私たちは、まったく新しいデバイスの中にいる。