白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

ポストモダンの魔術師

連帯と自由の哲学―二元論の幻想を超えて (岩波モダンクラシックス)

連帯と自由の哲学―二元論の幻想を超えて (岩波モダンクラシックス)

今日は、哲学書を選びました。ローティは、哲学者と言っても、倫理的、道徳的な問題に真理があるなどと考える古いタイプの形而上学者ではありませんので、ご安心を。しかし、本書は哲学専門家相手に書かれた本格的な論文ですから難解です。私には難解でした。そこで、この本には6つの論文(「哲学に対する民主主義の優先」他)が収録されているのですが、その内の一つを要約してみましたので、お暇でしたらお読みください。次回は思いきりポピュラーな本を取り上げます。

「方法を持たないプラグマティズム
Pragmatism without Method ,1983)

20世紀において、プラグマティズムはどのように機能したのか。ローティはそれを以下のように要約する。因習の殻を破り新しいものを受け入れることを奨励すること。宗教文化を振り払い自由にすること。道徳律の影響を抑え新しい社会立法を恐れないこと。新しい形態の芸術的自由や人格的自由を恐れないこと。これらに通底する実験的態度。これが、プラグマティズムの一般公衆に向けられた面であると。この面では、プラグマティズムは科学主義的であり、実験科学者を文化全体の規範として称揚したと言える。

他方、哲学という専門的職業内部ではどうであったのか。
そこでは、プラグマティストは、功利主義や感覚所与経験論、論理実証主義とは一線を画していた。そして、様々な多義性を持つプラグマティズムは、非常に混乱した<運動>のように見られていたとローティは言う。つまり、実証主義者にとってはそれほど堅くなく、唯美論者にとってはそれほど柔らかくなく、ある者にとっては無神論的でもなく、ある者にとっては超絶的でもない、といった具合だ。

プラグマティズムこそアメリカの哲学である」という決まり文句は、1950年頃から聞かれなくなった。ちょうど、デューイの死の直前からである。この頃から、アメリカの知識人が、プラグマティズム分析哲学から離れ、サルトルやマルクーゼに頼り始めたのだ。しかし、ローティは、プラグマティズムこそ「この反イデオロギー自由主義こそ、アメリカの知的生活の、最も価値ある伝統」であり、この伝統を生かさなければいけないと主張する。

本論でローティは、「信頼できる方法」が存在するとする「科学主義」を否定する。これが、「方法を持たないプラグマティズム」である。ローティは言う。確かにわれわれには、互いに語りかけ、世界に関する見解について話し合い、力よりも説得を用い、多様性に対して寛容であり、心から反省する用意のある可謬論者であるべき義務がある。けれどもこれは、方法論的原理を持つ義務とは別である、と。

ローティが本論で主張したかったであろう最大の眼目は、「哲学的な深さ」を求めて大陸哲学へと流れて行くアメリカに対する危惧である。ローティは言う。プラグマティズムは、ある種の歴史を持ったある種の政治形態の内でのみ考えられるような、そういった種類の<運動>である。それらを認めた上で、われわれはなお、ある不当な区別を行うことに、抵抗し続けなければならない。

そして、もっとも危険なのは、ある時代と場所・制度と切り離された哲学、すなわち、意見や慣習を払拭したような古いプラトン的な夢に逆戻りすることである。あるいは、「哲学的深さ」に陥ることである。ローティは本論文をこう結ぶ。

もし、(方法を奪われた)プラグマティズムと(深さを奪われた)大陸哲学とが一緒になりうるとすれば、われわれは(中略)自由主義を擁護するためのより良い立場に立つことになるであろう。