白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

現代思想(2009年8月号)

現代思想の8月号には、私の最も敬愛する経済学者塩野谷祐一氏と、もっとも信頼のおけるエコノミスト水野和夫氏の論文が掲載されている。何しろ「特集−経済学の使用法−キーパーソンは誰か」ときた。これを読まずに経済について議論することなど出来るだろうか? もちろん、他にも多くの論文が掲載されている。目次をすべて引用するというのも野暮だろう。ここでは、以下の二つの論文について見て行くこととしたい。水野和夫『近代の終焉と脱”近代”経済学』、塩野谷祐一『経済を存在論的に「投企」する』

◆資本主義の現在
水野氏は、外為市場が自由化された(固定相場制から変動相場制)1973年と、先進国における粗鋼生産量がピークになった1974年を、大きなターニングポイントとして位置付ける。それはまた、オイルショックの時期でもあり、ケインズ主義から新自由主義へと切り替わった時期でもある。さらに、1974年は、資本の利潤率がピークを迎えた年であるとも指摘する。つまり、近代資本主義400年の歴史の絶頂が1974年だったのであり、そこには構造的な問題が横たわっているということだ。いったい何が起こったのか。それは「実物投資によって資本蓄積を図る資本主義」が限界に達し、「金融資本をメインに今日買って明日売るという金融資本主義」への転換である。これについて水野氏は次のように書いている。

しかしそれは非常にリスクの高いことですし、金融資本市場でキャピタル・ゲインを獲得するのに、労働力はもはや重要ではないということになってしまったのです。(p.75)

以下、現在の資本主義を理解する上での重要な指摘を、2箇所を引用してみよう。

近代資本主義は、国民国家と民主主義とパッケージになって成立していたわけですよね。しかし今起きているのは、国家国民の枠を超えてお金が動くという事態です。

誰もが薄っすらとかもしれないが気がついているように、もはや豊かな国家は豊かな国民を意味しない。さらに、これからのエリートは政府でも官僚でも大企業の役員でもなく、超ノマド(国境を越えて動く流動性の高い超エリート)となるだろうし、既にその兆しが見えている。超ノマドは大富豪ではないかもしれないが、世界に対して圧倒的な影響力を持つ。重要なのは、どこに所属しているかではなく、どれだけ世界で流動的に仕事が出来るかに変わったのだ。彼らは国家を選ぶことが出来る。柔らかく言えば、国家に縛られることがないのだ。

この10数年で起きたことは、利潤強大化の目的のもと万国の資本家が一致団結したということです。

その根拠がどこにあるのかは示されていないが、ダポス会議や、ビルダーバーグ会議(非公開)の存在、M&Aによる企業グループの巨大化など、その傾向は顕著だと言えるだろう。東西冷戦が終わり、資本家は競争するよりも団結する方が得策だと判断したということだ。
さらに水野氏は「国民国家」から「帝国」への切り替えが起こると予測しているが、どうだろうか? 日本を例にとるならば、政府の力の衰退は明らかなのだろう。水野氏が「帝国」という言葉をネグリ=ハート的に用いているのかどうかは不明だが、経済の推進役としての政府は無力化し、もっぱら再配分といった調整に追われるであろうことは容易に想像がつく。

◆二つの経済学
水野氏は経済学には二つあるという。

1.国民の経済学(市場主義)
  市場が発するメッセージの中に悲鳴を読みとること。
2.資本家のための経済学(市場原理主義
  市場のメッセージは疑いなく正しいのであり、すべてを市場に委ねること。

1974年以降、経済学は「資本家のための経済学」になったというのが水野氏の見解である。私見では、経済学は歴史的にみて常に政治の道具とされる側面を持つのであり、なにも1974年以前の経済学が「国民の経済学」だったとは思わない。経済学者も人間だし、誘惑も多いだろう。以前にも書いたが、私たちはメディアの発する経済的言説を鵜呑みにしてはいけない。それは、多くの場合、人々をより多くの労働へと駆り立てるとともに、より貧困へと導くことを選択させるものだという穿った見方から入る方が健全で間違いの無い選択に至ることだろう。
水野氏は言う。「ですから、まずは、”近代”経済学から近代という冠を取ることが第一歩だと思います。」(p.77)

◆経済のヴィジョン
重鎮、塩野谷祐一氏の論文であり、いささか難解ではある。サブタイトルや章見出しを紹介しても良いのだが、ここでは「6.むすび」の中に書かれているケインズに関する一説と、結びの一節を引用するだけにとどめたい。なお、シュンペーターについては、私の過去ブログに塩野谷祐一著「シュンペーター的思考」があるので、ここでは省略する。

 ケインズはかつて世界不況のさなかにあって、「われわれの孫たちの経済的可能性」(1930年)という論文を書き、100年先に思いを馳せた。そのころになれば経済的問題は解決され、閑暇と繁栄の時代が到来するだろうと述べた。第二次大戦後、現実の経済成長は彼の予想を超えた急速なテンポで進んだために、豊饒の時代はすでに現実のものとなっている。彼が言おうとしたことは、人類にとってまったく新しい閑暇の時代においては、われわれが長い貧乏の時代に教え込まれてきた道徳や習慣や考え方の根本的な変革に迫られるということの警告であった。人間は経済問題を解決した暁に、初めて人間らしい問題に直面する。その問題とは、経済的動機に基づく労働の必要から解放されたとき、自由と余暇を何に向けるのか、賢明に快適に上品に生きるためにはどうしたらよいか、ということである。経済のためにどうするかを考えるのではなく、何のための経済か、経済の彼方にどのような価値を設定するかを考える時代が来るというのである。
(中略)
・・・もはやここでの紙幅は尽きているが、私は望ましい経済社会は、「効率」の代わりに「正義」とか「卓越」が支配する道徳的社会であると主張したい。われわれの課題は、望ましい経済のヴィジョンを道徳的想像力によって「投企」することである。