白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

シュンペーター的思考(2)

 前回は、「第5の長期波動」と題して、革新の領域と企業者の役割について書いた。今回は、この説を一部否定する考え方を同書の中から抽出することにする。それは「資本主義の終焉」に関する議論であり、主に、第9章「進化的科学としての経済社会学」を対象とする。シュンペーターは、資本主義の終焉を「企業者が社会的リーダーシップを失うこと」として捉えた。そして、その要因として、以下の4つを示している。

(1)革新が日常化され、自動化され、組織化された結果、発展はいわば官僚機構における専門家の行うような仕事となり、革新の担う企業者の機能と社会的地位は失われる。
(2)合理性の発展のために、道徳、規律、慣習、制度の面で資本主義を支えていた前資本主義的要素が失われる。
(3)資本主義の発展は、資本主義に対して批判的な知識階級と民主主義政治体制を生みだした。
(4)経済的成功を基準とする資本主義の価値観が力を失い、平等化、社会保障、政府統制、余暇といったものを好む考え方が強くなる。(p.305)

 さて、(1)および(2)についての私見を言えば、シュンペーターは資本主義の発展および合理性に対して楽観的に過ぎたように思われる。否、この楽観はシュンペーターだけでなく、多くの経済学者や一般大衆にも共通のものだったのではないだろうか。端的に言って、革新は日常化されていないし、合理性が発展したとする根拠はどこにもない。
 (3)についても、シュンペーターは見通しを誤ったようだ。ロバート・ライシュが「暴走する資本主義」(*1)で述べているように、アメリカでは、民主主義は巨大資本=超資本主義に飲みこまれた。さらに言えば、超資本主義は知識人や知識階級を吸収することで発展しており、ライシュの言う通りであれば、民主主義は今、大きな危機の中にある。
 (4)で示された資本主義的価値観は、シュンペーターの予測とは逆の理由で、力を失いつつあると見ることが出来る。すなわち、人々が経済的成功から疎外される傾向が強くなり、この事実が、人々を資本主義的価値観から離反させつつあるように見受けられるのである。

 さて、重要なのは、なにも資本主義を守ることでもなければ、資本主義を再定義することでもない。そうではなく、「人間のエネルギーを経済活動に集中するという方式、いいかえれば経済領域に社会的リーダーシップを求める方式が終焉するかどうかである。」(p.307)もっとも、リーダーシップには、いくつもの種類がある。フォロワーシップとの調和で成り立つ「選ばれるリーダーシップ」もあれば、競争を通して獲得する「イニシアティブとしてのリーダーシップ」もある。もはや、それが、政治家、企業者、メディア、知識人等のどの領域から生まれるかということは問題ではないのだろう。そのような見方は過去の分析手法であり、現代においては有効ではない。重要なことは、私たち一人一人が、それらのリーダーシップとどう関わるかであり、誰もが社会的リーダーシップと関われる状況になったという点にこそある。このような視座を持つならば、企業者に社会的リーダーシップを一任していた資本主義は、既に終焉の時を迎えていると言えるだろう。もちろん、そこにあるのは、いわゆる社会主義でも、民主主義でもない。名前は、まだ無くても良い。

暴走する資本主義

暴走する資本主義