白井京月の読書ノート

2009年から2014年の読書メモ

現代語訳「学問のすすめ」

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という冒頭の一文があまりにも有名なため、ややもすると、「そうだ、近代になって人は皆平等になったのだ」と早合点している人が多いようだが、真意はまるで違う。人は生まれた時は皆平等なのに、賢い人と愚かな人、地位の高い人と低い人、貴賤や貧富の区別がついてしまうのは、学ぶか学ばないかによるのであると、一刀両断、手厳しいのだ。そうは言っても、環境や健康や諸事情があるだろうになどということには触れようともしない歯切れの良さ。福澤諭吉の「学問のすすめ」は、この剃刀のような歯切れの良さに、力強さが加わり、まさに近代化を推進する原動力として機能した。組織とか文明の原動力というものは、単純でなければいけない。ああでもない、こうでもない、といった低徊趣味が原動力とならないことは言うまでもない。

もちろん、単純過ぎることと、同意できないこととは別問題だ。例えば、諭吉は自由というものに対する分限(義務)として、天の道理の基づいて人の情にさからわず、他人の害となることをしない、ということを示している。この分限には私も異論はない。また、政府と個人の関係など、明治4年に書かれた文章ながら、今読んでも、とても興味深く、時代を超えて示唆に富んでいる。特に、独立の気概と愛国心との関係についての章は必読だ。福澤諭吉のこの著作は、日本が世界に誇れる内容である。知識として読むのではなく、考え、行動する起点ともなるものだ。これこそが、私が「原動力」という言葉を用いた理由である。

ただ、時代には固有の空気、特有の精神とか態度というものがある。今、ふたたび、実利の思想を歯切れ良く、かつ、力強く押し出すことが、現代の日本において可能なのだろうか? 諭吉的視点からは、酒も道楽もレベルが低く、合理的でないとして切って捨てられてしまうのであるが、今、近代的に、それをがむしゃらに走るだけの熱量があるだろうか? であるならば、本書(現代語訳)は、過去の情熱に対する懐古趣味にのみ終わる可能性もあるだろう。ただ、訳者、齋藤考氏が解説で示しているように、「個」と「公」のつながりという点で、日本人は明治から現代に至るまでの間、どれだけ進歩、成長したのかを問うことは重要である。福澤のスタイルとは、「国」「公」「個」「私」といったものが、矛盾なくつながって行くことだと齊藤氏は説く。第2章にもある通り、政府と市民は対等なのだ。市民はそのことを、より強く自覚しなくてはいけないのだろう。